ふ~、やっと日が落ちると、いくらか過ごしやすい時期になりましたね。
ただ日中はアスファルトの上に立つと「開放的なサウナ」です。
日本の夏と言えば怪談話、夏の夜に怖い話をして暑さを忘れる、なんとも粋な計らいではありませんか。これは独特な感覚だそうで、外国ではそういう話をあまり聞かないとか。
夏の怪談や肝試しをしていたら本当に怖い目に遭った、そんな噂も沢山ありますから余計に怖さも増しますね。
先日、BS歴史館という番組で「大江戸・妖怪ブーム」というテーマが取り上げられていました。時間の都合で最後まで観ることが出来なかったのだけど、なかなか面白い内容でした。
この番組は進行役と、その時のテーマに明るい著名人をゲストに招いて、歴史上の事実を違った観点で語るというモノ。この日は夏という事で日本の妖怪をテーマに面白い話が繰り広げられていました。
妖怪はそもそも、その当時では説明のつかない自然現象や、昔からの教えを擬人化したものとして存在していましたが、いつからか、個性的なキャラクターが次々と生まれ大衆に人気が出てきたそうです。
この時代が徳川八代将軍徳川吉宗の代、つまり享保でした。江戸時代。
享保と言えば享保の改革、と学生時代に習いましたが、つまるところこの改革は財政安定を基本としつつ日本の地図や人口を調べ、より安定した政策が行えるようにしたという、なかなかすごい改革だったそうです。庶民の意見を聞く目安箱の設置もこの時ですね。
この改革で各地の名産品や珍獣などが集まった江戸は見世物小屋なども多くなかなか活気溢れたそうです。また印刷技術も発展し、多くの本が出版され、その中の一冊には妖怪の絵を収めた本もありました。この本は1頁ごとに妖怪の絵と説明を読むことが出来るもので、庶民の間で流行したそうです。
この時から妖怪とはただの現象から、人々がファンタジーを楽しむための存在というキャラクターへ変化したのでは、と番組内では考察されていました。さらにこのキャラクター付けを当時の政府や商人農民から疎まれていた侍に当てはめ、怪談話にすることで皮肉ること(有名な話では四谷怪談など)が当時の人々に受けたそうです。
番組ではこの後、妖怪というテーマから明治維新まで繋げて語られたそうですが、時間の都合上、僕は最後まで観れませんでした。再放送があれば観てみたいですね。
さて、この妖怪を楽しむようになったという説明の部分で次のような内容のお話しがされていました。
「存在しないものを、存在しているものとして、嘘だと分かっていながらそれを楽しむ。それが粋なんです」
この場合は妖怪という範囲で粋を説明していますが、なかなか言葉で説明しにくい粋を分かりやすく納得することが出来る説明だと思いました。空想の生き物、ファンタジーを、さながら身近に存在しているものとして面白可笑しく楽しむ、という粋だと、そういう事ですね。
ところで江戸時代のマジックと言えば手妻の解説書とされるものがいくつも出版された時代でもありました。
え?なんで急にマジックの話しになるか?
皆さんには秘密にしていましたけど、実は僕マジックが好きなんですよ。
この時代の手妻と呼ばれる演芸は現代でもしっかりと継承されており、北見マキさんや藤山新太郎さんなど大変有名な方々が演じておられます。きっとお弟子さんには若い人も多く、手妻師としてご活躍されているのでしょう。ちなみに和妻は無形文化財に登録された伝統芸、素晴らしいことです。
僕はTV番組内で「妖怪というファンタジーを楽しむのは粋なのだ」という言葉を聞いて、マジックにもそういう感情が当てはまるのではないかと思った。でもふと気付いたのですが、マジックに「粋」を感じることは果たしてあっただろうか。
不思議で楽しいし大好きだけど、「粋」というのとは少し違う気がする。粋という言葉の持つ不思議な感覚と「マジック」はどこか異なる雰囲気だと思うのです。
それに対して独特の間や物語性、日本舞踊の独特の所作が強く感じられる和妻・手妻には、あくまで僕の感じ方の問題ではあるのだろうけど、とても「粋」に思えるところがある。これはなかなか具体的な説明をし難い感情の部分で。
僕はその番組を観ながら、江戸の人々は妖怪の話しや怪談話の舞台を大いに楽しむのと同じく、和妻も粋に楽しんだのだろうか、なーんて思ったのだ。
欧州、米国での“カップ&ボール”の起源はそもそも街頭芸から始まっており、客引きをするために賭けやゲームとしての演出が必要であったという低俗な過去を持っています。
中略
ところが、極東の一国では事情が異なっていました。数百年も前から“カップ&ボール”、または“お椀と玉”は敬意と美しさをもって演じられています。
「高木重郎の不思議の世界」(リチャード・カウフマン.二川滋夫(訳).1992.東京堂出版)で、高木重郎先生のお椀と玉の解説でカウフマンが述べています。そもそもお椀と玉にして、カップ&ボールには無い所作や技法で成り立つ演目で、練習すれば取りあえず出来る、というレベルではないことが分かります。
ちなみに僕が観たお椀と玉の演技では最後にアンパンが出てきました。思わず笑ってしまったのを覚えています。
多分、このアーティストたちが発する「メッセージ」が観客との意思疎通を可能にし観客を感動させ、大いなる衝撃を彼らの心に与えるのでしょう。
「ジェイミー・イアン・スイスのクロースアップ・マジック」(ジェイミー・イアン・スイス.角矢幸繁(訳).2008.東京堂出版)の「何故、マジックはくだらない見世物なのか?」で述べられた言葉です。このコラムはマジシャンの立ち位置や存在に言及するもっと広い内容を扱っていますが、マジックが不思議で面白いだけで良いの?駄目でしょ?という問いかけがされています。
和妻には胡蝶の舞というとんでもなく綺麗な舞台芸術がありますが、それを観て「くだらない見世物」と感じる観客は、(ひねくれ屋を除いて)いないでしょう。
不可能を見せる点でマジックと和妻は同じジャンルだけど、どうもその受け手の感じ方が違う。
そりゃあ格好から所作まで違うのだから見え方は違うだろうけれど、何というか、もっと根本的な部分で和妻には1つ心に響くモノが含まれているような気がするのです。
マジックを観て「お!粋だね!」と思えることが無かったのは、僕が日本人で観たり演じるのが欧米流の「マジック」であるからなのか、はたまた演じる人間の問題なのか、そこはちょっと良くまだ分からないのですが、「粋でいなせな」マジック、ちょっと探求してみたくもなりました。
一応、2週間ぶりのブログなので猫ズの様子も載せておきます。
猫は狭いところが大好きですが、チビさん、そこも「狭いところ」に含まれるのかな?

夏はよくシーツを取り替えますが、新しいシーツの気持ちよさを最初に味わうのはメイさんなのです。
